旧友、ほそらを悼んで
12月5日(水)晴れ
中学高校の同級生だったほそらが
神様に召された。
6年もの長い間、肺がんと戦ってのことだった。
私と同じ、「美奈」という名前で、
高校時代はダブルミナで、
エリザベット会というボランティアサークルの
会長、副会長コンビを組んでいた。
定期訪問を重ねていた
養護学校の生徒さんたちを
体育祭に招きたいと、
学校始まって以来の計画をたてた。
ところが、前代未聞の計画に
生徒会と、思い切り対立。
職員室中を巻き込んでの
大騒動になった、高校二年の秋。
最後に校長先生のGOサインをいただいて
実現にこぎつけた。
あの日の、全校放送を今でも
よく覚えている。
養護学校の友達の声援で
走ったフタバマラソンは、
中学高校時代の数々の思い出の中でも
トップ5に入る、忘れえぬ思い出だ。
高校3年になってから、企画したのは
飢餓が問題になりつつあった時代に
2学期の始業式での校長先生の
ご挨拶からヒントを得て、
「私たちでできることを!」と
全校で募金だった。
カトリック校だったので、
募金はそれなりにスムーズに集まったのだが。
けれど問題は、その送り先。
新聞社に送れば、新聞に私たちの名前が載るけれど
いったいどう使われるかわからない。
全校生徒の清い善意に対して
それはイヤだ、そんな無責任なことはできないと、
またまた大騒動を起こした、この私・・・。
すったもんだの挙句、
結局、母校を運営するフランスの修道院で、
日本を統括されている統括本部長にあたる
シスターにご来校頂き、直接お渡しした。
同級生が、受験色にガンガン染まっていく
大事な時期に、
まだまだ熱く青春していた私をご覧になっていた校長先生から
「あなたは、大学にいけないと思った」と
言われても仕方あるまい。
今と変わらない「お騒がせ」だった美奈を
支えてくれて、私の思いつきに賛同してくれて
実現すべく、脇を固めてくれていたのが
もう一人の美奈、だった。
「凛」という言葉がまさにぴったりの、ほそら。
最後に会ったのは、去年の夏、
彼女が洗礼を受けてのお祝い会を
自由が丘で開いた時だったな。
「ピーコ、がんばっているじゃない!
これからもがんばって!!」
と、彼女独特のハスキーな声で
声をかけてもらったのが最後だった。
経営者でいらっしゃるお父様の
おうちに生まれて、
同じ学校で育って、同じく熱い青春時代を
過ごして。
彼女は教職へ、そして私は跡取り道へ。
これからと言う時に、
なのに、どうして、彼女だけ
先に逝かねばならなかったのか・・・。
悔しくて、残念で。
そして、志半ばで余命宣告を受けて
しっかりと死を受け止めた、彼女はえらい、本当にえらい。
長原の教会で執り行われたご葬儀のミサ。
大勢の同級生が参列していた。
「こんな時ばかり・・・」
涙でまともな言葉も交わせないほど。
無事に出棺。ほそらを見送った後、
駅に向かって歩いていると
10人前後の同級生が残った。
「ジメジメしたらほそらに叱られる、お茶でもしていこう!」
近くの店に。
40を迎えた私たち。
それぞれの生き方にまた、
変化を迎える時期が訪れようとしているらしい。
子育てがひと段落して
自宅で塾を始めた友人、
大学時代に学んだことを生かして
ゆくゆくは、カウンセラーにと
大学のエクステンションコースを
学び始めた友人、
結婚前から頑張っていたお花の道を
極めようと頑張っている友人・・・。
「私たちはまだまだ、これから。
ほそらにありがとう、だよね。
生かされ続けている限り、
ほそらの分も頑張って生きていこうね」
「生」は生きているのではなく
生かされているんだと痛感したほそらの死。
生かされている理由は、
一人ひとりは、ちっぽけな存在だけれど
ちっぽけでも、果たす使命があるから。
まだまだ、実力不足の私だけれど
一人の力では、何も出来ないけれど。
命続く限り、生かされている限り
堅実に、精一杯、この使命を果たすべく
かけがいのないこの「生」を生き抜こうと、
心に誓った私でした。
ほそら、どうぞ安らかにね。
天国から私たちを見守っていてね!!
どうもありがとう!!!!!